生物は目的を持つか

私たちは生物に関して擬人化する傾向がある。進化についても生物は目的を持って進化したと考えがちだ。単純な単細胞生物が、より複雑な多細胞生物、究極的には知恵を持った「高等」生物へと進化してきたと考える。そもそも進化という言葉が目的を連想させる。生物の遺伝的変化にはそれまで持っていた機能を失う「退化」も含んでいる。ヒトの尾がいい例だ。

 

GCウィリアムズは、「生物はなぜ進化するか」で「太陽は地球を照らす」と「われわれには目があるので太陽の光を見ることができる」はどちらも因果関係を表すが、「太陽があるのは地球を照らす必要があるから」、「目があるのはものを見る必要があるから」と書くと、前者は誤りで後者は正しいとしている。しかし、後者に関して、ものを見るという目的があって目が進化したと考えるのは間違いだ。原始の地球で突然変異によって偶然、光化学反応の結果生じた化学物質を「感じる」ことで、明るい方へあるいは暗い方へ移動すること、さらには外敵や餌を識別できることによって生存率を高められたことが目の進化につながったのだろう。

 

目的論は古代ギリシャにさかのぼる。プラトンの理想主義を受け継いだアリストテレスは世界の変化は常に、胚発生のように、固定された最終的な目的に向かっていると考えた。これはキリスト教などにも受け継がれた。生物の種は神によって目的を持って創造された。しかし、目的論を拒絶する考え方もあった。エピクロスは世界は小さな粒子または原子で構成されており、そうでなければ何もない空間で絶え間なく動いており、原子同士が無作為にぶつかり合うことで、世界で目にするすべての物理的および化学的プロセスが生み出されると考えた。そして生物が別の種類の生物に変身できるという考えにつながった。

 

進化における目的論思考は19世紀半ばまで続く。生物分類学の祖であるリンネは、すべての動植物は神によって創造されたものであり、したがってそれらは神の神聖な計画を明らかにする自然のグループに分類できると信じていた。解剖学者のキュビエはあらゆる生物の器官の相関関係を強調し、すべての部分が完全に調和して存在すると主張した。 他の器官に影響を与えることなく、どの部分も変更できない。 したがって、種が変化して別の種に変わることは、キュヴィエには不可能に思えた。

 

種が進化するという考えは18世紀から広まりつつあったが、やはり目的論の影響を受けていた。ラマルクは、首の短いキリンの祖先が木の低い枝から葉を食べると、首を伸ばし続けてより高い葉に到達すると仮定した。要不要説である。

 

こうした目的論と決別したのがダーウィンである。生物集団中の個体には遺伝する変異があって、より多くの子孫を残す変異が集団中で広まり、徐々に集団の性質が変わっていくと考えた。