読書ノート:私が進化生物学者になった理由

2021年、岩波書店

 長谷川眞理子さんの「私が進化生物学者になった理由」にドーキンスの「利己的遺伝子」に衝撃を受けたことが書かれている.初版が出版されたのが1976年,彼女が霊長類を研究しているアメリカの心理学者から本を紹介されたのが博士課程2年(1979年頃か)のようだ.私は1980年,修士課程のときにに日本語訳で読んだ.本格的に研究を始める前だったので,衝撃は小さかった.生物学研究者だけでなく,文化系の研究者や一般市民にも大きな影響を与えた著作である.すでに40年以上を経ていて,古典とも言えるかもしれない.

 この著作が幅広い影響をもたらした要因のひとつに,アナロジーによる説明のうまさがある.書名の「利己的遺伝子」からして,擬人的である.遺伝子は目的を持っているわけでなく,利己的でもない.正確に書くなら,「自然淘汰の単位は遺伝子である」だろうか.

 本文の半分以上はアナロジーにあてられている.たとえば,「一人のボート選手は、自分だけでオックスフォード対ケンブリッジのレースに勝つことはできない。彼には八人の同僚が必要だ。それぞれの選手は常にボートの特定部分に座る専門家だ.つまり、前オールか整調手かコックスか何かである。...」という記述が12行あり,その後に「ボートの選手たちにあたるのが遺伝子である。ポートの各位置に関するライバルは、染色体上の同一点を占める可能性のある対立遺伝子だ。」とつないでいる.生物学の教科書であれば,「特定の遺伝子は,対立遺伝子と競争関係にあるが,他の遺伝子との相互作用の影響も受ける」で済ませてしまうだろう.

 アナロジーの効果について,同じ「私が進化生物学者になった理由」に次のような解説がある.レダ・コスミデスとジョン・トゥービーによる4枚カード問題という研究がある.「カードに母音が書かれていれば,その裏は偶数が書かれている」という規則があるとする.4枚のカードが「A」,「K」,「4」,「7」と書かれてあるとき,先の規則が守られているかどうかを確かめるには,最低限,どのカードをめくって裏に書かれている文字を確かめねばならないか.この問題は手こずる人が多い.

 答えは,「A」と「7」の裏を確かめることである.子音の裏には偶数,奇数のどちらが書かれていても規則に反していないからだ.

 同様に,「ビールを飲むなら20歳以上でなければならない」という規則を考える.「ビール」,「コーラ」,「25歳」,「18歳」と書かれたカードが並べられており,その裏にはそれぞれ,飲んでいる人の年齢またはその人が飲んでいる飲み物の種類が書かれている.この規則が守られているかを確かめるには,どのカードをめくってみる必要があるか.第2の問題は多くの人が間違えずに答える.

同じ種類の問題ではあるが,前者は抽象的思考を必要とし,後者は日常生活で直面する問題である.コスミデスとトゥービーは,「人間の進化の過程で,互恵的利他行動に関する問題が非常に重要であったので,それに特化した脳内モジュールがあるのではないか」と考えている.

 互恵的利他行動は,お返し行動である.ある個体がコストをかけて他者に利益を与えるが,逆の場合もあるため,長期的には両者ともに利益を得る.しかし,もし,恩恵を得てもお返しをしない裏切り者がいると,互恵関係は成立しない.そこで,正直者と裏切り者を見分け,裏切り者には利他行動をしないようにすることが必要である.長谷川さんは規則を守ることは互恵的利他行動であり,規則を守っていない者を検出するのが人類の進化史で重要な課題であったと考えている.

 人間の理解能力が進化の結果だとすると,アナロジーによって理解しやすい記述にすることは意味がある.しかし,作為的なアナロジーによって間違った理解に導く可能性もあるだろう