いよいよカラハリへ

5月15日、ウィントフックから北東250kmほどにあるオチネネ近くの集落に向けて出発。その前にナミビアについて解説します。

ナミビアについて

ナミビアはドイツ、その後南アフリカの植民地となり、武装闘争を経て1990年に独立した。公用語は英語だが、アフリカーンス語やドイツ語、その他部族後が使われている。面積は日本の2倍以上、82万平方キロ。国土の大部分は砂漠か草原で北東部に樹林が存在する。ナミブ砂漠がよく知られている。現在の人口は254万人だが、1997年には166万人、人口密度は1平方キロあたり3人しかなかった。

ナミビアの位置

この地域にはもともとサンと呼ばれる採集民族が住んでいたと考えられているが,南部から放牧をするコイコイ族が移動し,共存した.さらに今から2千数百年前に放牧民族であるバンツーが北部から移動してきた.ところが,ヨーロッパ人が進入し1884年にドイツの植民地とされると,ドイツ人と在来民族との間の対立が激化し,1904年にはヘレロ民族が蜂起するが,ドイツによってフ75%が殺される悲劇に終わる.入植したドイツ人は,土地の大部分をフェンスで囲み,大規模放牧農業を行った.そして,一部を在来民族の居住地として残した。在来民族は基本的に土地は共有で,居住し農業を営む権利だけを分け合っている.一方で,ドイツ人は北部の自然の貴重さに気付き,エトーシャ保護区を設定した.第一次世界大戦の勃発によって南アフリカ軍がドイツ領に侵攻し,占領する.占領者は変わっても土地政策に大きな変化はなく,土地所有は独立後の現在も引き継がれている.そのため,ナミビアの土地利用は,私有農場,共有地,国立公園に大別することができる。

赤い部分が共有地、薄い色は私有地、斜線は国立公園 Wikipedia: Namibia homelands 78.jpeg

北部の村へ

5月15日、調査地に向け出発。私も運転したが、幸い日本と同じ左側通行なのと交通量が少ないのであまり苦にはならなかった。一度だけ危なかったのは、信号待ち後の優先順位で、私は直進で対向車が右折だった。当然こちらが優先だとおもっていたら、危なく衝突しかけた。ナミビアでは先に信号待ちをしていた方が優先的にスタートする。

調査地の場所

途中でダチョウの数羽の群れが出現。大きさに感激した.このあたりは主に白人が個人所有する牧場地帯で、1軒の牧場が7km四方ほどある。15:20ころ,共有地のゲートを通過.ここからは,村単位で土地を共有して放牧を行っている.5分ほどで,バラックの群れが見える.

 

15:30ころ,Otjineneの中心に到着.平屋ばかりだが,コンクリート製?の建築物があり,町らしい様子.広場(といっても道路がひろくなった交差点のようなもの)を中心に,ガソリンスタンド,スーパーマーケット,レストラン(内装工事中で調理も食事も屋外),バーが並ぶ.警察署のとなりにある小さな家で助手として雇ったコモはテレビを見ながら待っていた。

Otjineneから先は舗装されていない砂の道だ。途中で馬車を追い抜いた。村まで1日かけて移動するという。

砂の道を苦労して走る馬車

17:00キャンプサイトとなる家に到着.杭と針金で作った柵で囲った敷地に4戸の家と物置,日よけのアカシアの高木.柵内にテントを張らせてもらって暮らした。

集落の家

テント生活。車の上には途中で拾った薪。

現地の家は細い丸太と泥でつくってあり、窓は小さい。家は寝る時だけ利用する。調理は野外で焚火で行い、食事も焚火を囲って食べる。

泥壁の家。屋根はトタン。

焚火を囲んでの団欒

食事

現地の人が1日何食するのか忘れてしまったが、食事は質素で、オシフィマといってトウモロコシの粉をお湯でねったウガリのようなものに自家製のヨーグルトをかけただけ。普段は肉も野菜もない。私たちはウガリクノールスープや缶詰をかけて食べたが、後半は食料が底をつき、ヨーグルオシフィマが続いた。

オシフィマの調理

ちなみにヨーグルトは朝絞った牛乳をひょうたんに入れて反日おくとできている。牛乳は生では飲まない。

乳しぼり

ひょうたんでヨーグルトづくり